途中経過と考えたこと。本を売ったり捨てたりするとき、おおよその重さを量っておいた。このひと月で300キロくらい減らした。冊数にして1000ほど。本棚はひとつに集約されつつある。本棚は人に知を根付かせるための装置だと考え始めている。
本来、蔵書は「読み直す」ためにある。目的が「収集」になりがちな僕だけど、その性質を押さえつけながら、相当数の本を手放して判ったよ。僕はまだ、ものを集めることで満足していいほど大人ではない。未熟だと。
「読み直す」本には2つの種類がある。1つは、能動的に「あれを読み直したい」と思える本。もう1つは、受動的に「これを読み直さねば」と思わされる本。
前者は、娯楽、資料、勉強など目的を問わず自発的に欲するもので、自分がその本を所有していれば覚えている。背表紙が見えないような積み方をしても、少々奥まった場所にしまっても問題ない。
やっかいなのは後者で、「読み直す」必要があると少なくとも一度は考えたはずなのに、その存在すら忘れてしまう本たち。整理していく過程で、まったく身についていない本たちに気が付く。本棚は、それを見逃さず、再認識できるように活用すべきだ。
(知の善悪は脇に置くとして)知る機会を逃す、知っていることを忘れる、知っていることを実行できないのは惜しい。知は自分の血にしないともったいない。当たり前のことが、物量に押しつぶされて判らなくなっていた。バカダナー。
とか考えつつ、世界文学全集などを手放せない収集癖のある自分。バカダナー。
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