原理主義は頑なか?(1)

先日、NHKのニュースで「キリスト教原理主義」という言葉を聞いて、少し引っかかった。

イスラム教には「原理主義」を使い、キリスト教には「根本主義」を使う印象があったから。そして、これは僕の思い込みも含め、「原理主義」と言った場合、多くの人が「頑な」というイメージを抱いているのではないかと。ぶっちゃけて言えば「暴力主義」と同義に捉えている人が実に多そうだと。

語源をネットで調べると、原理主義も根本主義もファンダメンタリズムである。それが日本語になると区別して使われるのは何故だろうか。先に言っておくと、原理主義も根本主義も、すなわち暴力主義ではない。でも何となく差別的に使い分けていることに気が付く。

いずれも世俗化のもとで崩れてしまった信仰を元に戻そうと意図する人々や思想を指す。その信仰と関係のない人にとって、教理の根底、原理への誠実さは「頑な」と感じ、誠実がゆえに盲目であるように思う。

僕が育ってきた環境は、プロテスタント(福音主義)だ。これは宗教用語であり、自分達の中で使ってきた言葉。上記の社会用語を使えば根本主義ということになる。そして僕らは平和主義だと思っているが、同じ根本主義の中に暴力主義を持つ人々もいる。逆に言えば、イスラム原理主義の中にも平和主義と暴力主義を掲げる人々がいる。

メモということで、とりとめもない話で恐縮なのですが。

とにかく疑問なのは、誰がどうしてこれらの言葉を使い分け、与える印象を操作しているのか?ということ。言葉のプロフェッショナル集団であるはずのNHKが、キリスト教+原理主義という言葉を選んだ意図は何か?学んでみたい課題がひとつ見つかる。

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